弘法大師の教えを学び
日々の暮らしに真実を求め、
人生の豊かさを体得し
生きる力を授かる遍路です。
- 霊場巡りのご案内
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- 一、大師堂受付にて巡拝の装束をつけていただきます。(金剛杖・笠は無料でお貸しします)
- 二、巡拝に先立ち、洗心所で手を洗い、口をすすいでいただきます。
- 三、弘法大師さまの前に立ち、先達に従い仏前勤行を致します。
真言宗醍醐派の嫡流として弘照院ばらと霊園が切り拓いた「北海道八十八ヶ所総霊場」。この雄大な北海道において弘法大師の教えを授かる場として、そして石狩川の総本流の霊場として先人の霊と大地の霊性をお祀りするために発願より十年の歳月をかけ、造立した国内初の宗教庭園です。
10万㎡もの敷地には、多種多様な仏尊木(樹木)を配し、四国八十八寺のご本尊を巨大な石仏で、安置しています。四国遍路と同様に、八十八仏尊を弘法大師と同行二人で巡ることで迷いや苦しみから救いの菩提心へと還る道が開かれることでしょう。庭園内は、全てバリアフリー。ご高齢の方や足腰の不自由な方でも、快適にご参拝いただけるようになっています。
地球上の全ての人々が曼荼羅の心を起こし、幸せな人生をおくることができるように、この総霊場のご本尊様方とお大師様のご加護を願ってやみません。合 掌
弘法大師の教えを学び
日々の暮らしに真実を求め、
人生の豊かさを体得し
生きる力を授かる遍路です。
敷地を、四国に見立てて、同じ巡礼順序でご参拝いただけます。
仏教の始祖・釈迦如来、そして阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩、薬師如来、観世音菩薩の諸尊にまみえ、仏の世界へ誘われます。諸尊のおわします仏の世界を、多種類の植樹で現します。桃(プラム)は長寿の象徴、雄松(おまつ、クロマツ)雌松(めまつ、アカマツ)が八十八仏の巡り路を荘厳します。石楠花は山の象徴。木蓮は阿弥陀如来、七竈は薬師如来の樹です。
※福徳とは…仏語で、他に恵みを与え、自らの徳を積むこと。
幸福と豊かさ。また、北斗七星のひとつ・福星の武曲星のことともいいます。
虚空蔵菩薩(第二十一番)と地蔵
大菩薩の地、空をあらわす
ゆるぎなく「地」 遍在であり、さまたげなく自由であること「空」第二十一番の虚空蔵菩薩は、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰のあつい菩薩です。四国では二十一番寺は太龍寺です。空海はこの地で修行し、空海の空を得ました。
第二十番、地蔵菩薩は、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられました。虚空蔵と地蔵の二菩薩は、天地を表す対の仏様です。
「煩悩即菩提」
第三十八番、三面千手観世音菩薩
その昔、紀州の僧は役をおえると、打保(うつぼ)船に乗せられ、海の底にある補陀洛浄土を目指し、紀ノ川を下ったといいます。しかしながら、何かの弾みで大海原を流された後、生き延びることがあったといわれます。更に生きること、行を続けることを観世音菩薩は教えます。内地から移住した我々の祖先にとって、北海道もそのような延命の地の一つだったといえます。生き延びようとする生命力、いわば煩悩も、その後の人々にとっては菩提である。即ち、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」です。私たち北海道人の生き抜く力を誇り、これらの先人の御霊を永遠に御祀りします。
弘法大師信仰が庶民に浸透した理由には、人々の暮らしに根ざした数々の貢献があります。
聖地・讃岐の満濃池の修築や、各所での水脈の発見などは、大師が渡唐の際に持ち帰った広い知見の賜物です。
宗教に加え、科学・文学・書などの領域での功績、「文化を豊かにし、人々に教育を施すことで国の安定を図る」という考え方は、時の天皇・嵯峨天皇を感じさせ賜い、平安の世を四百年におよぶ長い時間に耐えさせ得る基礎となりました。
ばらと霊園では、この大師の威徳を称え「千代に八千代に、さざれ石の、巌となりて」の古歌にちなみ、四十五番を『瑪瑙のさざれ石』で荘厳しております。
*瑪瑙とは…金・銀・瑠璃などともに、仏教の七宝のひとつです。
第六十番、大日如来 風を説く
風を説く〈大日如来〉は、この地の鬼門・北東の当別川上流の青山と南西の手稲連山を結ぶ方位を指し示し「この世の出来事の因果に縛られがちな私たちに、それらからの自由を与えること」を諭します。空海は風について『大日経』具縁品より次のように引用しております。「訶(ka)字は、宇宙の本体の原因(hetu)と条件の把捉しえぬことを象徴し、(宇宙の本体が、すべての原因や条件を吹き払うことが、風の吹きはらう力に較べられるので、)訶字は風大を示す」。
第八十五番、聖観音は「円鏡力故実覚智成仏」、と説きます。
「その智慧をもって、すべてを明らかな鏡のように照らすとき、真理にめざめた智者となる」といいます。
「この句は「即身成仏」の理由を示しているものです。すべての仏は、どういう理由で、まことの智者という名を得られるのであるか。答えていう。すべてのものの形が、ことごとく、高い台の上に置いた明らかな鏡のなかにあらわし出されるように、如来の心の鏡のなかにも、同様にすべてのものがうつし出される。如来の、欠けるところがないあかるい心の鏡のなかにも、同様にすべてのものがうつし出される。如来の、欠けるところがないあかるい心の鏡は、高く全宇宙の頂にかかって、音もなくすべてのものを照らし、道理にそむいてさかさまでなく、しかもあやまりがない。このような完全無欠の鏡のような智慧を、仏たるものは必ず有しているのである。迷える人びとといえども、本質的には仏と異ならないのであるから、どうしてそのような智慧を有していないことがあろうか。そのようなわけで、人がこの身体のままで必ず成仏し得るという理由を示して、「その智慧をもって、すべてを明らかな鏡のように照らすとき、真理に目覚めた智者となる」といいます。
仏身即衆生身、衆生身即仏身
八十八番の荘厳の石組
八十八番の荘厳の石組は『仏身即衆生身、衆生身即仏身(かの「身」はすなわちこの「身」であり、この「身」はすなわちかの「身」である。仏の身体はすなわち生きとし生けるものの身体であり、生きとし生けるものの身体はすなわち仏の身体である)』の聖句そのものを表しています。また石組全体がダイヤモンドの玉を糸で結び合わせた簾をあらわしています。
この簾が帝釈天の装飾になっているものを、帝網と呼びます。簾は無限にひろがっていますが、「どの一つの玉が光を受けても、その光が全ての珠に光を伝える」というのがその教えです。すなわち「この世のどこにいても、誰であっても、その行いはこの世の全てに影響を与える」と、お大師さまは言います。
わたしたちの世界が〈どの独りがいなくても成り立たない〉という警句は、今日の人のあり方を問う重要な言葉です。
※当霊園でお墓を建立されていない方は拝観料が2,000円になります。
※桜葬申込者は無料